あめふらし

雨男ってよく言われます。音楽、映画、雑感とか

言葉

明日の研究会の準備をしてます。とは言うものの案の定行き詰まり、こうしてブログを書いてみたりしているわけです。

僕らは、ビデオで撮ってきた会話を細かく書き起こして、それをあーでもないこーでもないといって研究材料にしたりする。とは言うものの、本当のところ、言葉にはどれだけのものごとが込められるのだろうと思ったりもする。この人の言っていることは、ほんとうはこんな意味なんじゃないか、なんてよく思う。

ビデオを見ていてよく思うのは、人はまあよく喋るなってことだ。書き起こすのが嫌になるくらい、人はよく喋る。時には「ほんとうのこと」とは別のものを、なんとなくそれっぽいラップに包んで相手に渡す。

会話は、その人の本当のことを覆い隠して、逆にそのことが本当のことを匂わせながら、進んでいく。

 

先日、万引き家族という映画を見た(以下微妙にネタバレがあるので嫌な人はスルー推奨)。大変面白かったので、少し図式を整理してみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

改めて整理すると、あの映画は、事実を修飾するためのフレームとして 

  • ほんとう/うそ
  • 真/偽

という対立した図式が用意されている。とりわけその図式が先鋭化されるのは、取調室のやりとりだろう。取調官の言葉は、正しい。圧倒的に正しい。真偽で言えば真だ。しかし、その正しさに、私達は戸惑う。

取り調べというのは、そもそも、事実を、真偽の世界に落とし込むために私達の社会が行う1つのやり方だ。だから、事実かどうかだけではなく、「それがみんなにとってどうか」という価値判断が入る。

でも、事実には、真偽以外にも、「ほんとう」とか「うそ」の世界があるはずなのだ。映画の中で繰り返し描かれていたように、彼らは万引きをすることで、なんとか生きている。これは「正しくない」行いだろう。また、彼らは「正しい」家族ではない。戸籍上のつながりを持たないからだ。しかし、彼らにとって万引きは生きるために「ほんとう」に必要なことだった。また彼らは「ほんとう」に家族だったのだ。このことは、映画を観れば明らかだろう。また、犯罪がすべて「ほんとう」な訳でもない。車上荒らしのシーンを想起しよう。「誰かのもの」を盗む行為であり、「まだ誰のものでもないもの」を盗む万引きとは異なる。祥太の車上荒らしへの異議は、父が「うそ」をついたことへ向いたものだ。

こうした「ほんとう」の世界に、警察は「正しい」介入する。取り調べシーンにおいて、警察官は、正しき真なる存在として君臨していた。そして、「母」役の安藤サクラは、「ほんとう」の世界が「正しさ」に屈する場面で、涙する。あの演技は本当に圧巻だった。

 

私達は「ほんとう」のことを、真偽というフレームで覆い隠すことがある。真偽という価値を召喚するのは、当然ながら、言葉だ。取調室のシーンは、そのことを、私達にまざまざと教えてくれる。言葉が「ほんとう」のことを揺さぶり、まるでなかったかのように精算しようとする。

ただ、あのシーンに私達が戸惑いを覚えるのは、事実が消えないからだろう。彼らのいたほんとうの世界は、それがいかに真偽の世界で相対化されようと、事実として存在していたのだ。ラストシーンの直前、亜紀がかつての家を訪れるシーンがある。このとき、映画内で繰り返し使われていたピアノ音が、まるで事実を表象するかのように、一度だけ流れる(※1)。「ほんとう」の世界は終わってしまったが、たしかにそれは事実だったのだ。

たった1つの事実は、どんなに取り繕った真偽の世界であったとしても、それをぶち壊す破壊力を持つ。取調官がどんなに「当たり前」を伝えても、事実はそれを容赦なく破壊する。

どんなにいいこと書いたって、どんなにいいことやったって、事実はどうしようもなく正直だ。取調官への嫌悪・戸惑いは、そんな私達の世界の仕組みを照らし出しているからこそ、生まれてくるのだろう。

もちろんそれでも、真偽の世界は、取り繕うのをやめないだろう。それは絶望なのか、希望なのか、僕にはよくわからない。ただ、それが真偽の世界だとわかっていないやつは、最終的に足を掬われる。事実は、それくらい強いのだ。

 

 

 

※1 ちなみに、実は、エンディングの曲がこの映画の主題を完璧に再現している。天才細野晴臣が作曲したこの曲は、ピアノなどのアナログ音と打ち込み系のデジタル音が交差するように構成されているのだが、極めて興味深いことに、デジタルなものが、アナログなものを打ち消すように聴こえる。おそらくアナログは「ほんとう/うそ」に、デジタルは「真偽」に対応しているのだろう。この曲を聴くだけに映画館に行ってもいいくらい、素晴らしい曲だった。