あめふらし

雨男ってよく言われます。音楽、映画、雑感とか

メモ

「いかなるときも、地道に、人は自分の考えたり語ったりしていることを、自分のしていること、自分が何者なのかということと突き合わせてみなければならない。」
 
「ある哲学者の個人的な詩的態度を理解する鍵は、そこから演繹できるかのごとくに彼の考えのなかに探し出すのではなく、むしろ、彼の生としての哲学のなかに、彼の哲学的な生、彼のエートスのなかに探し出すべきものである。」
 
 「情熱と受苦」pp.7-8. 原文はThe Foucalt reader。

 

昨日からなんとなく気になって読みなおしている「情熱と受苦」。
上の2文が非常によかった。
 
フーコーを読んでいると、僕よりもずっと先に進んでいるように感じることがある。ずっと先を歩いている感覚。僕はまだまだあそこにたどり着けないんだろうな、という感覚。
それはフーコーのテクストが難解なことにだけ起因するわけではないと思う。おそらく、フーコーが「自己からの離脱」を企図しているからだ。
 
これまでいくつか書いた身体に関わる問題は、いわば「どうしようもない自己を見つける」という作業だったように思う。フーコーはそんな自己からの離脱を考えているのだ。どう考えても先を歩いている。
 
まだ読書の途中なので、それがどのような方法でなされ得るのか(「限界経験」というキーワードが出てきている)、注意して読んでみようと思う。