あめふらし

雨男ってよく言われます。音楽、映画、雑感とか

身体

 人は自分の身体を引き受けることが出来るのか。
 
実家に帰省しています。
最近いろんな事情で実家に帰ることが多くなって、今回もその一環。
 
父と話した。
いや、話したというべきか、単純に夜ご飯を一緒に食べただけ。
大学に入ってからは夕食を外で食べることも増えたし、そもそも親父とはあまりウマが合わないので、実家にいた時からあまり一緒にいることはなかった。
 
 
僕は父をあまり好きではない。
「尊敬している人は誰ですか?」と質問されたなら、100%確実に親父以外の人を挙げる。
 
 
ただ、今回圧倒的に気づいたことがある。
やっぱり俺、親父とそっくりだ。
 
 
1つ言えることがあったら10は言うスタイル。
お節介。
デリカシーの無さ。
 
 
思い出せばきりがないくらい自分にも当てはまる。
思わず笑った。
この人は昔から変わらない。そして、びっくりするくらい今の僕と同じだ。
 
子が親に似るなんて、考えてみりゃ当たり前の話なんだと思う。
ただ、高校時代から「ああはなりたくねえな」と思っていた。
親父みたいにならないようにと思って生きてきた節もある。
バンドだって心理学だって、元を正せば父への反発なのかもしれない。
それでも、やっぱり似ている。
そんな事実に気づき、戸惑う。
 
 
病気の母にデリカシーなく文句を言う。
揚げなすの油が古いことを異常に叱責する。
まだ飲むかもしれないコップを片付ける
常にイライラして小言を言う。
 
 
こうなりたくねえよな、今でも思う。
でもな、こうなってんだよ。
ここで育って、この親父と毎日一緒にいたんだから。
どんなに心理学の知識を身につけようと、バンドをやろうと、この家で生まれたという事実は身体に残る。
久しぶりに父と一緒にいて、そんな自分を見る。
 
実家には老いぼれた犬と、先代が亡くなった後すぐに兄が拾ってきた猫がいる。
僕の部屋は兄の荷物置きになり、寝るスペースくらいしかない。
積み上がる学部時代に読んだ本と楽器や部活のガラクタは、僕の父にならないように変わろうとした軌跡だ。
この軌跡に反比例する形で、僕は父に似る。
 
僕の研究は、変わっちゃった人の研究だ。
変わっちゃった人が、変わった自分をいかに引き受けるのかという研究だ。
そう思ってた。
でも、もしかしたらちょっと違うんじゃないだろうか。
変わっちゃったと思いたい人が、変わらない自分を引き受ける研究なんじゃないだろうか。
どうしても変えられないこと。その人のルーツになる何か。
私たちはそんななにかを引き受けることが出来るのだろうか。
 
この変わらない自分のことを「身体」と呼びたい。
身体は言うことを聞かない。
どんなに嫌でも頭痛になるし、1言えば良いことを10言ったりする。
どんなに変わりたいと願っても、変わることのできない何か。
私たちはそんな自分の身体を引き受けることが出来るのだろうか。
 
難しい。現状では嫌悪感しか無い。
ただ、父の姿に自分の身体を見て笑った僕は、自分の身体に気づいている。
自分の身体に気づいて、その身体に寄り添うこと。
身体を引き受けることは、まずここから始まるのではないか。
とはいいつつ、僕は全然ああなりたいとは思えない。
あんな感じになりつつある自分も全然好きじゃない。
それでも、寄り添うこと。
 
めんどくせえなあ。そんなこと考えずに楽に生きりゃいいのに。
 
なんとなく目が覚めて考えたことを書きなぐった8月の早朝。