あめふらし

雨男ってよく言われます。音楽、映画、雑感とか

手帳

目新しいものが好きだ。こんな性格は、間違いなく母から受け継いだのだと思う。ある日、学校から帰ると、母が高圧スチーム的な洗浄機を開封していた。通販でよく見る水圧で汚れ落とすやつ。使ってみたら思ったより汚れが落ちず「なんやこれ」ってなった。でもなんかそれが面白くて、みんなで「みずでっぽうやん」とかいってゲラゲラ笑っていた。

母がそんなんだから、家はモノで溢れてた。ただ、なんとなくだが、いらないものは1つもなかった気がしている。満足したものであれ、使ってないものであれ。父は不満げであったが。

最近、研究をしていて、自分はとりあえず目新しいトピックに食いついてしまって、研究の主軸がないなあと感じることがある。研究でもモノが溢れていて整理できていないのだ。こんなとこも母のせいにするのは忍びないが、そう思ってしまうものはしょうがない。博論書くまではなんとか腰を据えていきたいのだが。

 

今日、母が死んでおよそ2年がたち、三回忌を行った。本当にあっという間だった。親戚との会食の後に、実家に寄った。父が掃除して小綺麗になった実家は、なんとなく寂しさをたずさえて、ひっそりと佇んでいた。あの溢れていたモノたちは、いったいどこへいったのだろう。

ふと、母の手帳を見つけた。といっても、超がつくほどのめんどくさがりの母は、最初の月だけフレッセイ(群馬のローカルスーパー)の特売日情報などを書き込んだのみで、使った様子はない。多分年度始めに書店で見かけて勢いで買ったんだろう(しかも謎に3年間使えるやつ)。いかにも母らしい使い方だ。その手帳のなんとも情けない姿に、なんとなくほっとする。

でも、パラパラとページをめくると、ほぼガラ空きのカレンダーに、丁寧な字で書き込んである箇所を見つけた。家族や友人の誕生日だ。3年間分、しっかり書き込んであった。ああ、そうだったよなと思い出す。たとえ勢いで買った手帳であっても、まず最初に書き込むのは、大切な人の誕生日で、母はどうしようもなくそんな人でもあったのだ。母は、溢れるモノたちに、そうやって一つ一つ愛を吹き込んでいた。みずでっぽうになった高圧スチームも、予定ガラ空きの手帳も、商品本来の姿ではないかもしれないけれど、母の愛に溢れていた。やはり母は、いらないものなど何一つ買っていなかったのだ。私は、そんな母が大好きだった。

なんとなく、自分の研究にもそうやって関わっていけばいいのだと思った。関わってきたトピックに、今自分ができる精一杯の愛を。たとえそれが情けない姿であったとしても。そういう人でありたいと思った。

遺影のなかの母は、「たまたま誕生日思いついただけじゃ」とでも言いたげに、照れ隠しのような笑みを浮かべて、いつまでも笑っていた。

言葉

明日の研究会の準備をしてます。とは言うものの案の定行き詰まり、こうしてブログを書いてみたりしているわけです。

僕らは、ビデオで撮ってきた会話を細かく書き起こして、それをあーでもないこーでもないといって研究材料にしたりする。とは言うものの、本当のところ、言葉にはどれだけのものごとが込められるのだろうと思ったりもする。この人の言っていることは、ほんとうはこんな意味なんじゃないか、なんてよく思う。

ビデオを見ていてよく思うのは、人はまあよく喋るなってことだ。書き起こすのが嫌になるくらい、人はよく喋る。時には「ほんとうのこと」とは別のものを、なんとなくそれっぽいラップに包んで相手に渡す。

会話は、その人の本当のことを覆い隠して、逆にそのことが本当のことを匂わせながら、進んでいく。

 

先日、万引き家族という映画を見た(以下微妙にネタバレがあるので嫌な人はスルー推奨)。大変面白かったので、少し図式を整理してみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

改めて整理すると、あの映画は、事実を修飾するためのフレームとして 

  • ほんとう/うそ
  • 真/偽

という対立した図式が用意されている。とりわけその図式が先鋭化されるのは、取調室のやりとりだろう。取調官の言葉は、正しい。圧倒的に正しい。真偽で言えば真だ。しかし、その正しさに、私達は戸惑う。

取り調べというのは、そもそも、事実を、真偽の世界に落とし込むために私達の社会が行う1つのやり方だ。だから、事実かどうかだけではなく、「それがみんなにとってどうか」という価値判断が入る。

でも、事実には、真偽以外にも、「ほんとう」とか「うそ」の世界があるはずなのだ。映画の中で繰り返し描かれていたように、彼らは万引きをすることで、なんとか生きている。これは「正しくない」行いだろう。また、彼らは「正しい」家族ではない。戸籍上のつながりを持たないからだ。しかし、彼らにとって万引きは生きるために「ほんとう」に必要なことだった。また彼らは「ほんとう」に家族だったのだ。このことは、映画を観れば明らかだろう。また、犯罪がすべて「ほんとう」な訳でもない。車上荒らしのシーンを想起しよう。「誰かのもの」を盗む行為であり、「まだ誰のものでもないもの」を盗む万引きとは異なる。祥太の車上荒らしへの異議は、父が「うそ」をついたことへ向いたものだ。

こうした「ほんとう」の世界に、警察は「正しい」介入する。取り調べシーンにおいて、警察官は、正しき真なる存在として君臨していた。そして、「母」役の安藤サクラは、「ほんとう」の世界が「正しさ」に屈する場面で、涙する。あの演技は本当に圧巻だった。

 

私達は「ほんとう」のことを、真偽というフレームで覆い隠すことがある。真偽という価値を召喚するのは、当然ながら、言葉だ。取調室のシーンは、そのことを、私達にまざまざと教えてくれる。言葉が「ほんとう」のことを揺さぶり、まるでなかったかのように精算しようとする。

ただ、あのシーンに私達が戸惑いを覚えるのは、事実が消えないからだろう。彼らのいたほんとうの世界は、それがいかに真偽の世界で相対化されようと、事実として存在していたのだ。ラストシーンの直前、亜紀がかつての家を訪れるシーンがある。このとき、映画内で繰り返し使われていたピアノ音が、まるで事実を表象するかのように、一度だけ流れる(※1)。「ほんとう」の世界は終わってしまったが、たしかにそれは事実だったのだ。

たった1つの事実は、どんなに取り繕った真偽の世界であったとしても、それをぶち壊す破壊力を持つ。取調官がどんなに「当たり前」を伝えても、事実はそれを容赦なく破壊する。

どんなにいいこと書いたって、どんなにいいことやったって、事実はどうしようもなく正直だ。取調官への嫌悪・戸惑いは、そんな私達の世界の仕組みを照らし出しているからこそ、生まれてくるのだろう。

もちろんそれでも、真偽の世界は、取り繕うのをやめないだろう。それは絶望なのか、希望なのか、僕にはよくわからない。ただ、それが真偽の世界だとわかっていないやつは、最終的に足を掬われる。事実は、それくらい強いのだ。

 

 

 

※1 ちなみに、実は、エンディングの曲がこの映画の主題を完璧に再現している。天才細野晴臣が作曲したこの曲は、ピアノなどのアナログ音と打ち込み系のデジタル音が交差するように構成されているのだが、極めて興味深いことに、デジタルなものが、アナログなものを打ち消すように聴こえる。おそらくアナログは「ほんとう/うそ」に、デジタルは「真偽」に対応しているのだろう。この曲を聴くだけに映画館に行ってもいいくらい、素晴らしい曲だった。

メモ

「いかなるときも、地道に、人は自分の考えたり語ったりしていることを、自分のしていること、自分が何者なのかということと突き合わせてみなければならない。」
 
「ある哲学者の個人的な詩的態度を理解する鍵は、そこから演繹できるかのごとくに彼の考えのなかに探し出すのではなく、むしろ、彼の生としての哲学のなかに、彼の哲学的な生、彼のエートスのなかに探し出すべきものである。」
 
 「情熱と受苦」pp.7-8. 原文はThe Foucalt reader。

 

昨日からなんとなく気になって読みなおしている「情熱と受苦」。
上の2文が非常によかった。
 
フーコーを読んでいると、僕よりもずっと先に進んでいるように感じることがある。ずっと先を歩いている感覚。僕はまだまだあそこにたどり着けないんだろうな、という感覚。
それはフーコーのテクストが難解なことにだけ起因するわけではないと思う。おそらく、フーコーが「自己からの離脱」を企図しているからだ。
 
これまでいくつか書いた身体に関わる問題は、いわば「どうしようもない自己を見つける」という作業だったように思う。フーコーはそんな自己からの離脱を考えているのだ。どう考えても先を歩いている。
 
まだ読書の途中なので、それがどのような方法でなされ得るのか(「限界経験」というキーワードが出てきている)、注意して読んでみようと思う。

忘れ物

忘れ物が最近多いんですよ。

いや、忘れ物だけじゃないな。全体ボケっとしてる。かく言う今も、一連の忘れ物で、こんな時間にブログ書いてるわけです。

 

一連の忘れ物というのは、昨日の午前中から始まります。早めに家を出て大学で仕事しようと思って、大学着いたらパソコンを家に忘れたことに気づく。パソコン無いと仕事にならんので、家に帰る。そして大学に戻ってくる。大学にて、明日の学会行きの航空券を印刷しようとしてら、予約されてない。日程を一週間間違えていたらしい。慌てて予約を取り消して、再度予約し直すも、高すぎてLCCしか取れず。早朝発のバスに揺られているという次第です。帰りは高速バスです。地獄。

 

そんなもんなんで、昨日家帰ってないです。幸い学会参加に必要なものは準備できていたのでよかった。荷物はトートバッグ1つ。iPad miniMacBookiPhoneiPodはあるけど、着替えなし。バランスが悪い。

 

この間もパソコン忘れたばかりで、そのうち取り返しのつかない忘れ物なんかするんじゃねえかなと今から心配です。これ見た方、特に後輩の君、僕がなんか忘れてないか注意してあげてください。多分なんか忘れてますから。

順番

「世の中、タイミングなんだよな。順番といってもいいけど」
忍が溜息混じりに呟いて、融の顔を見た。
「順番が違ってれば何とかなったのにってこと、ないか?」
「あるような気がする」

恩田陸夜のピクニック」188-190頁より)

 

23時くらいから順番について考えていて、そしたら以上の一節を思い出したんです。ああ、そうだったな、と思い返した。「夜のピクニック」は、そんな、不器用な小説だった。

 

 

順番を作るのが下手くそな人は損だと思うんですよ。世の中って予想以上に順番に支配されている。順番が合わないと全然ダメ。逆に順番さえ合っちゃえば、結構な無理が通ったりもする。

 

 

今、研究でブルーナーっていう研究者の「意味の復権」という本を細かく読んでいるんですが、これがまた、順番の話。ブルーナーは順番を文化と言い換える。世界には順番(文化)があって、それが僕達の欲望を作る(順番を守りたくなる)。逆に、順番があるから欲望を抑えたりもできる(順番があるから横入りしたくてもしない)。突然順番を破るやつが出てきても、話し合いでまた順番を変えたり、あるいは守らない奴に、守れよ!と怒ったりもできる。

 

今、仲間内でビジネスをやろうって話になっていたりするのですが、この世界にもやっぱり順番がある。というか、ビジネスの世界が最も順番にシビアだ。順番を守らないと誰もついてこない。お客さんも、同僚も。逆に順番を守れば、それ相応の対価がある。

 

僕達は予想以上に順番に縛られている。如何ともしがたく。どうしようもなく。多分要領がいいやつってのは、この順番を作るのが上手いんだな。僕はというと全然ダメ。すぐに結果を求めてしまう。順番を守るのも下手だし、作るのも下手。

 

 

でも−−。

 

そんなもんなんじゃないだろうか、人間って。

 

 だが、正しいのは彼らだった。脇目もふらず、誰よりも速く走って大人になるつもりだった自分が、一番のガキだったことを思い知らされたのだ。
 そして、彼らは融よりもずっと寛大だった。一人で強がっていたのに、彼らは融のことを愛してくれていた。いつも離れずそばについていてくれたのだ。
 融は自分が情けなく、恥かしくてたまらなくなった。
 「——もっと、ちゃんと高校生やっとくんだったな」
 融は思わず呟いていた。
 「え?何?」
 貴子が振り向く。
 「損した。青春しとけばよかった」
 「何、それ」
 「愚痴」
 貴子は、本気で後悔している表情の融の表情を見て、沈んでいた心のどこかが動くのを感じた。
 忍の声が、唐突に脳裏に蘇る。
 なんて言うんでしょう、青春の揺らぎというか、煌めきというか、若さの影、とでも言いましょうか。
 忍の冗談めかした声と、つまらなそうな顔の融とが重なりあった。
 ひょっとして。
 貴子は融の顔をじっと見つめた。やけに無防備な、子供のような不満顔を。
 今ごろになって感じてるわけ?そういうものを?今更、この男が?
 貴子は、あきれて笑い出したくなった。
 この男は、落ち着いていて偉そうに見えるが、実は、とんでもなく不器用で生真面目なのだ。
 「ちゃんと青春してた高校生なんて、どのくらいいるのかなあ」

恩田陸夜のピクニック428-429頁より)。

 

順番は守るべきだし、できることなら破ることなく生きていたい。でもどうしようもなく気づかないことが、やっぱりある。大概は後になって気づく。あーあ、また守れてないわ。どうすんのさ、こんなんなっちゃって。大概こんなもん。最速で走るのが最高!って思っていたら、実は途中にいろんな要所があって、その辺全部無視しちゃってた。こんなもんなんだよ。多分。

 

「ちゃんと青春してた高校生なんて、どのくらいいるのかなあ」。

そう、ちゃんと順番を守れる奴なんてほんの一握りで、やっぱりみんな順番なんか守れやしないんじゃないだろうか。でも守れなかったことに後悔しながら、僕達は次のステップを生きる。

 

前回、身体について書いた。順番を守りたいのに守れない。こんなところにも身体は顔を出す。

 

そんな順番を守れない身体を、やっぱり好きにはなれないけど、少しだけ肯定できるような気がした深夜1時。

身体

 人は自分の身体を引き受けることが出来るのか。
 
実家に帰省しています。
最近いろんな事情で実家に帰ることが多くなって、今回もその一環。
 
父と話した。
いや、話したというべきか、単純に夜ご飯を一緒に食べただけ。
大学に入ってからは夕食を外で食べることも増えたし、そもそも親父とはあまりウマが合わないので、実家にいた時からあまり一緒にいることはなかった。
 
 
僕は父をあまり好きではない。
「尊敬している人は誰ですか?」と質問されたなら、100%確実に親父以外の人を挙げる。
 
 
ただ、今回圧倒的に気づいたことがある。
やっぱり俺、親父とそっくりだ。
 
 
1つ言えることがあったら10は言うスタイル。
お節介。
デリカシーの無さ。
 
 
思い出せばきりがないくらい自分にも当てはまる。
思わず笑った。
この人は昔から変わらない。そして、びっくりするくらい今の僕と同じだ。
 
子が親に似るなんて、考えてみりゃ当たり前の話なんだと思う。
ただ、高校時代から「ああはなりたくねえな」と思っていた。
親父みたいにならないようにと思って生きてきた節もある。
バンドだって心理学だって、元を正せば父への反発なのかもしれない。
それでも、やっぱり似ている。
そんな事実に気づき、戸惑う。
 
 
病気の母にデリカシーなく文句を言う。
揚げなすの油が古いことを異常に叱責する。
まだ飲むかもしれないコップを片付ける
常にイライラして小言を言う。
 
 
こうなりたくねえよな、今でも思う。
でもな、こうなってんだよ。
ここで育って、この親父と毎日一緒にいたんだから。
どんなに心理学の知識を身につけようと、バンドをやろうと、この家で生まれたという事実は身体に残る。
久しぶりに父と一緒にいて、そんな自分を見る。
 
実家には老いぼれた犬と、先代が亡くなった後すぐに兄が拾ってきた猫がいる。
僕の部屋は兄の荷物置きになり、寝るスペースくらいしかない。
積み上がる学部時代に読んだ本と楽器や部活のガラクタは、僕の父にならないように変わろうとした軌跡だ。
この軌跡に反比例する形で、僕は父に似る。
 
僕の研究は、変わっちゃった人の研究だ。
変わっちゃった人が、変わった自分をいかに引き受けるのかという研究だ。
そう思ってた。
でも、もしかしたらちょっと違うんじゃないだろうか。
変わっちゃったと思いたい人が、変わらない自分を引き受ける研究なんじゃないだろうか。
どうしても変えられないこと。その人のルーツになる何か。
私たちはそんななにかを引き受けることが出来るのだろうか。
 
この変わらない自分のことを「身体」と呼びたい。
身体は言うことを聞かない。
どんなに嫌でも頭痛になるし、1言えば良いことを10言ったりする。
どんなに変わりたいと願っても、変わることのできない何か。
私たちはそんな自分の身体を引き受けることが出来るのだろうか。
 
難しい。現状では嫌悪感しか無い。
ただ、父の姿に自分の身体を見て笑った僕は、自分の身体に気づいている。
自分の身体に気づいて、その身体に寄り添うこと。
身体を引き受けることは、まずここから始まるのではないか。
とはいいつつ、僕は全然ああなりたいとは思えない。
あんな感じになりつつある自分も全然好きじゃない。
それでも、寄り添うこと。
 
めんどくせえなあ。そんなこと考えずに楽に生きりゃいいのに。
 
なんとなく目が覚めて考えたことを書きなぐった8月の早朝。

ホテルが見つからない時・急にホテルを探す時に

こっちのブログ散々放置してました。

 

このあいだ高知に旅行に行った時、ホテルがどこも満室だったのですが、以下の方法で簡単に宿を見つけることができたので、メモがてら書き残しておきます。

ネットで宿が簡単に見つかりゃこんな方法使う必要ないですが、ものぐさな人は直前になって「宿が無い」なんてこと結構あるのではないでしょうか。あとは急遽出張が決まっちゃったとか。そんな人のために。

 

1.google mapで駅名を検索

 まず泊まりたい地域の駅名を検索します。駅名じゃなくても有名な建物とかでもOK。

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2.ホテルを検索

 そして「付近を検索:ホテル・レストラン」のホテルをクリックします。

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すると周辺のホテルが出てきます。

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あとは検索に出てきた所にアクセスしまくればOK。

都内のホテルであれば大体楽天かyahooのリンクがついています。

リンクがついていなくても電話番号が付いていることが多いです。

 

特にこの方法が有効なのは地方です。

地方のホテルはちょくちょくネット予約ではなく、電話予約のところがあるからです。電話予約だとネットに空室情報が載っていないことも多くて、そういうホテルが穴場だと思います。同様に都内など都会部でもネット予約でないところは穴場な可能性があります。

先日高知に旅行に行った際、1週間前に宿を探し始め、どこも満室。同時並行で行く場所の検索もしていたのですが、その時なんとなくこの方法を思いついてやってみたら一泊4000円のビジネスホテルを見つけることが出来ました。

ただ小さな民宿なども意外と満室のところがありました。ですので根気強く探していく必要がありそうです。あとはすげーお高いホテルなどは空室があったりしたのですが、あいにく予算に合わないので却下。「ちょっと粗悪でもいいからやすい宿を直前に探したい人」にこの方法はオススメです。

 

それでは。